Zone Theme Exhibition 2014
Zoneテーマ展2014「不純美術作品展」

12月13日(土)〜28日(日)、12:00〜18:00(水・金休廊)

参加アーティスト:伊佐地恵子、小泉光子、酒井俊明、笹埜能史、ジョシュア・ミラー、ジョン・ディレマス、杉本晋一、長野久人、橋本あやめ、橋本修一、麻留也、やたみのり、山本修司、ヴァロー・リベルト


「非純粋美術」は応用美術になるのだろうか? 
「非応用美術」は純粋美術になるのだろうか?

昔からイラストレーションは純粋美術(絵画)か応用美術かが、よく議論されている。横尾忠則氏の作品や「画家宣言」などを持ち出すまでもなく、両者の境界は曖昧である。それは双方に表現、感性、精神面において共通するものがあるからだろう。一般に、応用美術は実用的価値と芸術的価値(芸術的価値とは何かは、さておき)があるとされる。一方、純粋美術は純粋に芸術的価値を追求した結果、生まれたものだという。端的にいえば、両者の相違点は、ある用途のために創出されたか、自己の内面の表出かに由ることになる。

19世紀の半ばにフランスで「芸術のための芸術」(芸術至上主義)が提唱されるまでは、このような美術の概念を二分するような考え方はなかった。もっとも、日本では芸術と言う名称も概念すらも、明治の初頭に西周が「Art」を「芸術」と翻訳するまでは存在しなかった。それ以前の日本の視覚芸術と言えるものはすべて用途があった。仏像の彫り師も屏風の絵師も皆芸術家ではなく「職人」(工匠)だったのだ。

近年、「パブリックアート」と言って、公共的な空間の魅力を高めるために、あるいは「地域アート」と言って、町おこし(地域活性化)のために、「用途」を目的とした美術作品が設置されたり芸術祭が開かれたりしている。また美術鑑賞の在り方も、ただ見るだけではなく、体験型、参加型と、多様化している。これまでの「芸術のための芸術」では考えられない純粋美術に「実用的価値」が付加されるようになってきた。時と共に、確かに美術の概念は変貌している。今までのような二分法は、消滅しつつある。いまさら、歴史は右肩上がりに発展するとは考えないが、かといって、江戸時代へ逆行するとも思えない。せっかく獲得した芸術の自律性を消失させてはならないと思う。芸術はそれ自身のために存在しなければならない。そのためにも「芸術」の意味を再考してみる時期なのではないだろうか。

江戸時代のように、味噌も〇も一緒であろうと、あったかどうかわからないポストモダン後の現在であろうと、どのような表現形態でも、先ず、作家は内発的な関心と要請に照らして、自らの立ち位置をしっかりと見つめ判断すればよいのではないか。制作に際して、諸々の過程で生じる問題は二義的なものにしか過ぎない。年末のZoneテーマ展、「不純美術作品展」は、もう一度「純粋美術」とは何かを問う展覧会にしていきたい。
(中谷 徹)


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