EXHIBITIONS

2010年 6月13日(日)〜6月26日(土)
木原真男展「Images」
Masao Kihara Exhibition, “Images”

これまで私は絵画への不信というよりはイメージを追いかける事への不信にとらわれていた。私が採用した方法は画面の表面にイメージを見いだす代わりに文字を置くことだった。文字はそれを読み取る人間の心に直ちにイメージを現出させるからだ。

しかし今回はその方法を採ることができなかった。経験中の経験とでもいうべき激しい現実に揺さぶられたときに人間は言葉以前の言葉たとえば叫びのようなものでしか反応できないことがある。現実をやり過ごすために自分の内にわき出るイメージを形にする以外に方法はなかった。これまで自分の中に封印していたドロドロしたものが直接流れ出てきたような気がする。観客に不快感を与えるかもしれない。だがこれも私の内から出てきたものであることに違いはない。皆様の容赦のない批判を期待したい。   <木原真男>




木原真男展「Images」
 

木原の作品を目の当たりにしたのは、丁度いまから10年前、2000年に伊丹ホールで開かれた「かくされた眼差し」谷口新・木原真男展だ。以来私には、木原は、「イメージ」を忌み嫌い「言葉」で自己表現をするアーティスト、との認識があった。

しかし、その木原は、最近「言葉」では捕らえきれない出来事(事件)に遭遇し、「激しい現実に揺さぶられたときに人間は言葉以前のたとえば叫びのようなものでしか反応できない」ことを経験したという。

木原真男展、Imagesは、今までイメージを追いかけることへの不信にとらわれていた木原が、それを払拭し、新境地を切り開いた初の個展である。

ギャラリーは、白木の木肌をそのまま生かした木彫の端正な容姿とドローイングのアーストーンの色調で、全体に落ち着いた雰囲気をかもし出している。

展示スペースの中央には、地面に指を突き立てた手首の木彫が設置されている。その中心部を棒杭が貫き、高さは全体で2m40cmにもなる。よくよく指の辺りを観察すると指が一指欠けているのがわかる。何指かは判然としない。そのため角度により人体にも見える。突き刺さった棒杭、欠損した一指、地面にめり込むように突き刺さった指。一見、白木の清爽なイメージにもかかわらず、そのありさまに尋常でないものが隠されているのに気づく。中央に配置されていることから、インスタレーション全体を理解するうえで重要な役割を担っているのであろう。

壁面には2点のドローイングが展示されている。ハトロン紙(包装紙の再利用)をガムテープで継ぎ合わせその支持体としている。そこに展開するイメージは暴力的ともいえるチョークのストロークと、それによって創り上げられた肉片がうねる様に重なり合い、荒々しい感情むき出しにしている。この形体は、椰子の実をモデルにイメージを膨らませて描きあげたという。これは丁度、被検者の無意識的側面が把握できるロールシャッハテスト、いや、もっとバウムテスト(ツリーテスト)に近いものがある。自らの手で自らの深層心理を呼び起こす試みをしているのだ。

「激しい現実に揺さぶられたときに人間は言葉以前のたとえば叫びのようなものでしか反応できない」この言葉通り、木原は木を切り刻み、ハトロン紙にチョークをぶつけることで、肉体に非日常の出来事を、「叫び」を呼び戻そうとしている。こうして木原は「言葉」という理性に訴えるのではなく、それらの関係性をも、浮かびだす深層心理に働きかけているのだ。

「ありのまま」を表現しようとすれば、普通人は言葉を使用する。だが言葉とは記号に他ならない。まさしく、そのことによって「ありのまま」からずれてしまわざるを得ないのだ。木原は、考えたり感じたりした「ありのまま」を、必ずしも「言葉」によって表現出来ないことを、体験を通して知るのである。肉片と手首のイメージが、彼の「ありのままの叫び」をどこまで表現できたのかは不明である。少なくとも木原にとって、「言葉」以上に、「イメージ」によって自己表現が可能であることを、この展覧会で証明して見せた。理性が人間をつかさどる、と考える時代は木原の中で終焉を迎えたのである。

木原が、今後イメージという「言葉」でどのような言語体系を創り上げるのか楽しみである。

 

人の心を動かすのはロゴスではなくパトスだ。(アリストテレス)
 

コンテンポラリー アート ギャラリー Zone  代表 中谷 徹

アーティストトーク

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