EXHIBITIONS

2009817日(月)〜830日(日)
笹埜 能史 展 VAULTING HORSE2(跳び箱2)
- Funny but Empty」
Yoshifumi Sasano Exhibition,"VAULTING HORSE 2-Funny but Empty"

 関西で言うところの「あほらしい」は非現実、ナンセンス、批評精神、いろんな意味を含みながら、ものやことのずらし加減を言い得る心地よい言葉のひとつです。
今回、作品を前に立ち上る懐かしさや面白さ、また一方の虚しさや寂しさという負の感情、そんな複雑さを「funny but empty」と表しました。
「おかしみ」の作品に対し「あほらしい」と評されれば本望と思っています。<笹埜能史

 

笹埜能史展 VAULTING HORSER2(跳び箱2)- Funny but Empty
笹埜氏にお会いしたのは、十数年前に遡る。友人の谷口氏と二人展を開いたときに紹介していただいた。それ以来、アーティストとして、美術教育者としての活躍を耳にするにつけ、気にかかっていた。彼は作品を発表する一方で、美術書も出版している。中でも、つい最近知ったのだが、漫画家としての顔もある。1990年頃、メタ漫画「サルでも描けるまんが教室」の企画「勝ち抜き4コマ選手権」で初代チャンピオンになっている。多才である。「美術」への愛情は尋常ではない。
笹埜が作品発表を始めたのは阪神大震災後だという。その頃から、一貫して「コミュニケーション」そのものを表現行為の目的とした作品が多い。コミュニケーションの対象となる相手はごくごく個人的な事情を契機にしている。職業柄、生徒であり,亡き父親であったりもする。しかし時には社会的なメッセージを不特定多数に伝える試みもしている。このことは、「Pillow War」・「電鍵」・「Yomogi Project」・「Cry Baby」・「Self-Ping-Pong」・「Sky-Walker」(何故か英文字のタイトルが多い)などに見て取れる。そのコミュニケーションの手段として笹埜は、日常生活用品の模倣、変容、またその巨大化、そして静止画(スティール写真)や動画の駆使により受信者(観客)に作品の存在への注意を促している。さらに、一方的なメッセージの発信をよしとせず、受信者(観客)と送信者(アーティスト)とのインタラクティブ(双方向的)なコミュニケーションを求め、観客参加型の作品に仕立てている。そこに、今までのアーティストと観客との間に存在しなかった新しい関係性の成立を企図している。「電鍵」や「Self-Ping-Pong」などはその顕著な例である。これらを前にして、ふと阪神大震災の真っ只中、通信不能に陥った状況が頭をよぎった。

笹埜の「コミュニケーション」への過剰サービスは、サービス精神を発揮すればするほど、メッセージは「謎」を深めていく。発信者と受信者との間のキャッチボールを試みているが、結果として二者の間に微妙なズレが生じる。この場合、発信者は受信者に受信者は発信者にと、相互に役割が入れ替わる。そこで取り交わされるメッセージが、お互いの思惑からズレればズレるほどまた、そのジェスチャーが大仰でその上、真摯で愚直であればあるほどそのズレが大きくなり、笹埜の言う「おかしみ」が醸しだされる。さらに、このやり取りを見ている第三者(「会話」の当事者でない受信者―観客)にナンセンスユーモアが生起する。関西人の言う「あほらしい」である。ここに笹埜の初期の漫画家としての素性が顔を覗かせる。

今回笹埜は、「市場」の空間に「跳び箱」を出現させた。跳び箱は学校以外では見られないものである。小学生時代の体育の時間を思い出す。青空の下、運動場で思いっきり跳び箱に向かって走る。跳躍板をける。跳び箱の背を突き上げる。体が宙を舞う。その一瞬異次元にワープするような空白の時間を体験する。懐かしい。

しかし、この跳び箱は学生時代によく見慣れた跳び箱ではなく、横っ腹が円形に刳り抜かれている。その上1.5倍も大きく造られている。跳ばれることを拒絶しているとしか思えない。ところが、一方ギャラリーの片隅に据えられたモニターではクレーンで吊り下げられ、跳び箱が飛んでいるような映像がエンドレスに流れている。しかし近寄ってよく見ると、スケーターズワルツにのって、空中で跳び箱がワルツを踊っているように見える。まるで空中舞踏会だ。しかし、優雅さはない。クレーンで吊り下げられ、無骨さが際立つ。力ずくの舞だ。

体育の時間、跳び箱が跳べない生徒がたくさんいたのを思い出す。基礎体力が落ちたと言われる昨今、生徒は跳べなくて困っているのだろう。教師としての笹埜の「サービス精神」はその「一瞬」を再現し、体験させてあげようとしているのではないだろうか。跳び箱の中は、乗り物のようにコージーな空間が設えてある。ゆれに備えてつり革が天井からぶら下がっている。クレーンで吊り下げられた跳び箱の絵が電飾のように輝いている。窓から、空中の自らを確認し浮遊感を味あわせるためなのか。ここでも、笹埜のサービス精神が、これでもかと、溢れている。

「跳び箱が飛ぶ!」、「跳び箱が踊る!」笹埜の素振りが真摯で愚直であればあるほど「受信者」とのコミュニケーションのズレは広がる。そのズレをまともに理解しようすると、スット背後に消えてしまう。肩透かしを食ったようになる。何ともつかみどころがないが、妙な魅力が後味のように残る。笹埜の思う壺である。そんな自分の「あほらしさ」加減に呆れる。笹埜の作品はコミュニケーションのズレを巧みに操作しながら観客を非日常の世界へ導いてくれる。

芸術作品の特性が日常の隙間をこじ開け、非日常の世界を垣間見せることであるのなら、笹埜の作品はそれを見事に具現している。

コンテンポラリー アート ギャラリーZone 代表 中谷 徹

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