EXHIBITIONS

2009年4月11日(土)〜4月26日(日)
浅山 美由紀 展 「安息地RED7‘09 桜井市場バージョン」
Miyuki Asayama Exhibition

現実の生活は平坦ではない。時には逃げ場のない迷宮へ入り込んでしまう。
そんな時、少しだけ視点を変える。違う時間を過ごす。
そうすると、いつもと違う世界や考え方が浮かんできて、また歩き出すことができる。
本展では、迷宮から現実に戻るための安息地を、市場と言う現実の生活の場で表現します。
黒糸を縫い込んだ赤い透ける布を素材にしたインスタレーションです。
ギャラリーのメインのスペースでは、作品を天井から蚊帳のように吊るし、中に入っていただけます。
そこは、子供のころ夏休みの夜に蚊帳の中に入ったときの、安心感と異次元の世界に来たようなワクワクした気持ちを同時に感じられます。
また、メインのスペース横の通路を使って、赤い布を幾重にも重ね、奥に入っていただけます。
布の中に入ると、現実から少しずつ遠のいていきます。
でも、その透ける布の向こうには現実が見えます。
二つの作品は、現実から完全な遮断の場ではなく、力をチャージするための場所です。
静かではあるけれど、動の安息地です。
<浅山美由紀 >
 

浅山美由紀作品、「安息地RED‘09桜井市場バージョン」
 浅山作品からフェミニストアートを想起した。アメリカの直接的で生臭いフェミニストアーティストの作品とは違う極めて日本的なフェミニストアートである。
 ギャラリー横の通路に、幾重にもおり重なったオーガンジーの帳(とばり)からなる、深みのあるくれない色の空間が創出されている。それは、人を拒絶するようでもあり、招きいれるようでもある艶容な洞(うろ)である。そのくれない色の帳には黒いジグザグ模様の刺繍が施されている。幾条もの黒い蔦が重なり合って帳の上を地から天に向けて這い上がっているように見える。「生命力」を表象しているのだろうか。帳を分け入る手に皮膚の、細胞の襞にねっとりと纏わりつくような感覚がイメージされる。さらに奥に進むと帳の奥から、動きに伴ってたゆたうともし火に迎え入れられる。そこには、道標(みちしるべ)と思しきものがあり、この後待ち受けている「安息地」への禊(みそぎ)の場になっているようだ。
 「ともし火」は両義性を持つ。勝手な思い込みを許していただけるのなら、「ともし火」は両具性なのである。滑稽かも分からないが、私の「想い」は、「男」を象徴する道祖神から女神である天照大御神にまで馳せた。道祖神はご存知のように道標であり、天照大御神は、太陽の象徴である。道祖神に導かれこの天照大御神が身を潜めている天岩戸の洞を通過することにより現世の穢れをこの太陽神の輝線で清めるのである。この洗礼を受けることにより「安息地」への切符を得るのである。
 このように浅山の企図する「安息地への道」を説明するためには、神道からキリスト教にいたるまでの宗教用語を借用しなければ、「安息地」は説明できないのである。それほど、日本の社会を反映した人の生き様がこの作品にはある。
 よって、アーティストの思惑がどうであれ、私は、観客は先ず、この隘路(あいろ)に侵入することから、浅山が仕掛けた「安息地」を体験すべきだと考える。是非そうしていただきたい。
道標が指し示す「安息地」は、その通路とは対照的にメインギャラリーの開かれた空間に安置されている。くれない色のオーガンジーの帳で密閉された空間。そこにも、隘路と同じ黒い刺繍が施されている。しかし、その形態は粘菌や植物の茎の断面を思わせる。それはあっけらかんと、明るい。軽く透けている生地は、求める者を待ち受ける椅子を映し出している。なにやら、選ばれた者のみが体験できる神聖な空間に見える。「安息地」に足を踏み入れるには勇気がいる。自らを人々に晒さなければならない。しかし、一度試してみるとよい。己が所属する世界を外界として認識するまたとない機会であるからだ。一枚の薄い帳で仕切られているにもかかわらず、俗世のしがらみが断ち切られたように、現実感がすっぽり抜け落ちて、ニュース映画を見ているような、全く他人事の世界が広がる。しかし、不思議な安心感がある。
 「安息地への道」を産道から胎内回帰を図る作品と勝手に解釈した。人間誰しもそこに安息地を見るのではないだろうか。少なくとも、かつては皆そこに居た。母体に戻ると、間違いなく過去のしがらみが全てディフォルトされる。
 「現実の生活は平坦ではない。時には逃げ場の無い迷宮へ入り込んでしまう。そんな時、少しだけ視点を変える。いつもと違う時間を過ごす。羽を休める。そうすると、いつもと違う世界や考え方が浮かんできて、また歩き出すことができる。」この浅山の言葉は、男性社会の枠組みに無意識に抗う女性の独白ではないだろうか。女性としての生きる術を自問自答している。「安息地」から「駆け込み寺」を想像するのは私だけだろうか。
 作品を制作するのに浅山はミシンを踏み続け一台壊したと言う。彼女が選んだ用具、素材はいわゆる美術用品ではない。かつてそして、今もなお、女性が家庭で日常使用しているものだ。赤いオーガンジーンの布で、繕い物をするように女性独自の知覚や感受性を総動員させて作品を仕上げる。浅山にとってのアートとは女性として生きること、女性として呼吸することである。
 観客参加型のこの作品は、癒しの空間を観客に分かち与えることによって成り立つ。つまり、観客と今までのアートとは異なる関係性を築くことを目的としている。市場の一角に人々が集まり、去っていく、一見はかない状況を扱っているが、人々は浅山の無言のメッセージの伝達に加担するのである。癒しの空間で、人々は浅山と関係を結ぶ。その出会いや体験が浅山の求めるアートなのである。
 次の作品が楽しみなアーティストの一人である。現実から、自らを遮断せず、次なる目的を持って力をチャージし、静かではあるが「動」の作品を創っていただきたい。そこにアーティストとしての「安息地」がある。

コンテンポラリー アート ギャラリーZone 代表 中谷 徹

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